SNSを見ていると、欲しい情報が手に入ったり感動する言葉や作品に出会えたりする一方で、何も心に響くものがなくただただ画面をスクロールしている時がないだろうか?
そんなとき、求めてるものがどこにもないなぁと思う。
そんな体験をきっとあなたも一度はしたことがあるはずだ。
そんなあなたにこそ、この本を読んで欲しい。
この本はいわゆる「文章術」の本ではない
本のタイトルは『読みたいことを書けばいい』とあるので、文章に関する本であることは間違いない。
そして、文章の書き方をまとめた本はこの世に沢山ある。
例えば、この本には文章を書くための「テクニック」が具体例を交えながら詳しく書いてある。
しかし、この本を読んで得るものはあるのだが、書き手のオリジナリティーのある文章を生み出すことからは遠ざかる。
巷に溢れるビジネス書は「すぐに◯◯をしよう!」と読み手に迅速な行動を促すものが多いが、田中泰延さんの初の著書となるこの本は、読者に大きな問いを投げかけ、自らと向き合うことを促されているように思う。
なぜなら、書く行為は自分自身をさらけ出すものであり、書く行為について考えるということは自分自身について考えることでもあるからだ。
では一体どんな本なのか?と気になってくると思うが、本の内容を紹介する前に、著書である田中泰延さんの紹介を簡単にさせてほしい。
田中泰延さんとは一体何者なのか?
田中泰延さん(以下ひろのぶさん:Twitter上で多くの人がそう呼んでいるため)は24年間電通にコピーライターとして勤め、3年前に退職された。
引用元:田中泰延氏のTwitter
いまは地方自治体と提携したPRコラムや写真メディア『SEIN』連載記事を執筆活動をされており、映画・文学・音楽・美術・写真・就職など本当に幅広いテーマの文章を書かれている。
糸井重里さんからの信頼も厚く、糸井さんは今回本の帯にコメントを寄せられている。
2人の対談記事もある。
画像引用:https://www.1101.com/juku/hiroba/3rd/tanaka-302/01.html
ちなみにわたしがひろのぶさんの文章に出会ったのはこの記事。
ベートーヴェン『第九』【連載】田中泰延のエンタメ新党
画像引用:https://www.machikado-creative.jp/planning/21673/
圧倒的な熱量と、思わずベートーヴェンの交響曲第9番が聴きたくなってしまう展開に「こんな文章がパンフレットに載ってたら面白いのになぁ」と純粋に思った。
通常クラシックのコンサートのパンフレットで見るお決まりの固めな文章は、クラシックのコンサートを聴く人には優しくないと常々思っていたからだ。
もちろん常に優しくなくてもいいとは思うけれど、読んだだけで思わず音楽を聴きたくなるような文章にはなかなか出会う機会が少ない。
ひろのぶさんの文章の好きなところ
ひろのぶさんの文章が好きな理由は2つある。
難しい話でも分かりやすく書いてくれるところと、いつも語りかけるように書いてくれているところだ。
ひろのぶさんの文章の先にはいつも「誰か」が、「わたし」や「あなた」が存在している。
本の中で「書き手ではなく、読み手として書く」という言葉が書かれているが、まさにその強力な力を感じるのだ。
実際に、冒頭から実際に対峙して話を聞いているかのような、ときに関西風に鋭い突っ込みを入れたくなるような場面もあるのできっとあなたも惹き込まれるだろう。
また、ひろのぶさんの文章の特徴として文字数が多いことも挙げられる。5000字、7000字、そして1万字ということも珍しくない。
しかし、一度読んだ人ならその長さが単に量が多いということでないと分かるはずだ。
長い文章を書く意味については、こう書かれていた。
順を追って考え、順を追って書き記していくことが自分自身の理解への道のりそのものであり、結果として人の気持ちを動かす文章となる。その「思考の過程に相手が共感してくれるかどうか」が、長い文章を書く意味である。
ちなみに本の中ではひろのぶさんの長い文章が生まれる裏側も知ることが出来た。
言葉とは、文字通り「葉」である。好きなことを好きに書いた葉を繁らせるためには、「根」が生えていなければならない。それが一次資料である。
こんな風にしてあの文章が出来上がるのか..と驚いたし、不思議と愛を持って調べることに力を注ぎ、何か文章を書きたくなる衝動に駆られた。
『わたしなんかが書いていいのか?』の答えがあった
わたしは音楽家だけど、こうしてブログで考えを書くこともあるし、ライターとして文章を書くこともある。
・ヤマハZブログ
・Re:mider(80年代の音楽コラム)
・働き方メディア『Fledge』
文章も音楽も、何か表現する度に未熟であることを痛感するし、その行為を経てもっとこう在りたいという願望が生まれる。
わたしは演奏して音楽を通して自分の思いが伝わったり、お客さまに喜んでもらえる瞬間が好きなのだけど、文章を書いているときも同じ喜びを感じるときがある。
例えば、映画『ダンケルク』を見てダンケルクに行ったときに見た景色を是非伝えたいと思って書いた文章がたくさんの人に届いたとき、わたしはとても嬉しかった。
週末に訪ねたダンケルクの街で感じたことを書きました。写真と動画をたくさん載せてみたので是非ご覧ください☺️🌸
▼ダンケルクで映画『ダンケルク』を見てきました。 https://t.co/rezroqwcAy @sawaclarinetさんから
— 吉田 佐和子 Sawako Yoshida (@sawaclarinet) 2017年10月2日
思いを共有したいと思ったときに、文章や音楽など常に何か介在するものがあるのだ。
でも、たまに『わたしなんかが書いてもいいのか?』と思うことがあった。
なぜなら、より良い文章を書きくために沢山の人の文章に触れたとき、何とも言えない壁を感じるからだ。
これは音楽でも一緒で、わたしより上手い演奏をする人は世の中にたくさんいる。これは事実だ。
若い頃は、頑張ればいつか憧れの奏者のようになれるはず!と思っていたが、憧れの奏者と同じようなものは出来たとしても絶対同じにはならない。
わたしの表現がどんなものであるのか理解するためには、表現を続け自らの表現を見つめ続ける必要がある。
以前はそれがすごく恐かった。
こうあって欲しいという願望に対して「出来てない」という現実と対峙しなければならず、同時に気分が落ち込むからだ。
ただ、今は改善するべき部分が見えない状態が一番恐ろしいと思うし、わたしたちはもっと思いを自由に表現してもいいんだと思う。
そして、次の部分を読んでハッとした。わたしが『わたしなんかが書いていいのだろうか』と思っていた理由が分かったからだ。
評価の奴隷になった時点で書くことが嫌になってしまう。他人の人生を生きてはいけない。書くのは自分だ。誰も代わりに書いてはくれない。あなたはあなたの人生を生きる。その方法のひとつが「書く」ということなのだ。
恥ずかしいけれど、わたしが気にしていたのは他人の評価だ。
実際に「誰に共感してもらえなくてもいい。わたしが良いと思う音楽を届けたい」と思って先月開催したリサイタルは思っていた以上にお客さまに届いたという手応えがあった。
面白い文章も音楽も、まずは自分自身を楽しませることから始まるはず。
わたしなんかが文章を書いていいのか?と考えることもあったし、わたしなんかが演奏続けてていいのか?と思うときもあった。
でもどっちも猛烈に楽しくて苦しくて面白くて、やっぱり楽しいのだ。
わたしは、わたしの人生を生きたいと思う。
さいごに
本の中にこの本の編集を担当された今野良介さんが初めてひろのぶさんに送ったメールが全文転載してあった。
なんとも熱い、心動かされる文章だった。
特にわたしは次の言葉が特に印象に残った。
「文章が伝わらない 」と悩む人は、今、とても多いです。
その大きな原因の1つは、「書き手が嘘をついていること」にあるのではないかと、最近感じ始めています。
私が考える「嘘 」とは、あからさまに悪意のあるものだけでなく、「本当に思っていないことを書く 」「他人から借りてきた言葉をそのまま使う 」「その対象に愛がないのに紹介する」などを含みます。
〜中略〜
でも、小さな嘘を積み重ねているうちに、自分の嘘に無自覚になってしまうと、相手と心が通じ合わなくなるのではないかと思うのです。
ここに、この本が生まれた意味が書いてあるように感じた。
わたしたちはもっと素直に、正直に思いを紡いでいいのではないだろうか?
正直に思いを紡ぐ・・言葉を紡ぎ、文章にすることは、まさに読みたいものを書くことであり、あなたの読みたいものは、誰でもないあなた自身が知っているはず。
そのために大切なことがしっかり本に書かれている。
ぜひ実際に手にとって確かめてみてほしい。