自分の存在と他人の評価する自分と自分の思う自分は別である

最近『自分』という存在のほかに『自分が評価する自分』と『他人の評価する自分』っていうのがあるな、って思ったんですよね。

「自分」
「自分が評価する自分」
「他人の評価する自分」

この中で自分の意思で変えられるのは『自分の評価する自分』だなって。

だって『自分』という唯一無二の存在は、誰からどんなことを言われても、何があっても、変わらずただそこに在り続けるものだから。

こういう風に考えるようになったのは最近なんだけど、それが分からず苦しんだ時期も多かった。

他人からの評価を気にして決断したこともたくさんあった。

たとえば、家族、お世話になった人、ファンの人など・・

自分ではどうしようもない評価を気にしていたなと。

そして、自分自身について考える時間をとってなかったな、と。

でも、3つの自分がいると思うようになって、少し気持ちが楽になった。

もちろん、一口に『自分』といっても、例えばすごくやる気のある自分がいたり、やる気のない自分がいたり、がんばりたい自分がいたり、がんばりたくない自分がいたり。

本当にいろんな自分がいるので、どれか1つを私だと決めつけることができない。

こんな感じで、いろんな自分がいるんだよってことを認めて、どんな自分に対してもそれでいいんじゃないってマルを出してあげられる自分でありたい。

 

 

ふと、一体いつから他人からの評価が気になるようになったのかな?って思いが過った。

だって、この思想って生まれた時からあるものじゃない。

どこでこの考えが必要だと考えるようになったんだろう?って自分の人生を遡ってみたんです。

おそらくそれは、子供の頃?それとも音大時代かなぁ。

いろんな人と自分の考えの意見が合わないことがたくさんあって、その際に『なんでさわちゃんはそんな風にするの?』と言われていた。

私にとっては何気ない一言だったり、行動だったんだけど、それが相手をすごく傷つけてしまっていた。

何回も怒られるたびに、周りの考えてることを気にしなければいけない、こんな風に何度も言われる私はだめな人間だと思ってた。

最近こういう風にちょっと昔のことを思い出す訓練をしている。

驚くことに、自分のことなのにもう全然思い出せないことがあったり、無意識の中に忘れてしまおうとしていたことがあった。

ただいろんな記憶を思い出して自分のことをより深く知ろうとするこの過程は、私にとって必要な時間なんだなと思う。

今まで、どちらかと言うと音楽で何か成功を残したい何か形を残したいと言う気持ちでやってきた。

でも東京で頑張りたい、そう思った時に、自分の気持ちは小さい箱に入れて成功するまでこの箱は絶対開けないと思ってた。東京はわたしにとって、正に戦いの場だった。

自分の気持ちを犠牲にしないと成功はつかめない、自分の夢はつかめないって思ってた。

東京ではいろんな夢が叶えられたのだけど、でもその先に待っていた景色は、思っていたよりも虚しかった。

どれだけ周りの人が褒めてくれても全然自信が持てなかったり、自分にとっての幸せが何なのか?よくわからなくなった。

もうすぐ私は日本に戻る。

東京を戦いの場にしたくないし、音楽と歩む生き方を変えていきたいと望む自分がいる。

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この記事を書いた人

株式会社Locatell代表取締役社長 / 一般社団法人福知山芸術文化振興会 代表理事 / プロのクラリネット奏者としての活動を2023年9月で休止し、起業家として芸術文化・まちづくり・海外を軸に複数の事業を展開中

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