「福知山を拠点にします!」と言ったら
『月にどれくらいいるん?』
『本当に住んでるの?』
という質問がそれはもう頻繁にくるようになったわけですが
どこにどれくらい居るか?
ってことよりも
どこで誰とどんなことをやるか?
そこに住む人たちとどんな関わり方をしてるか?
ってことの方がよっぱど大切だと思うんですよね。
私は、自分の音楽を高め続けていく事と、福知山の文化を発展させていく事に人生をかけてます。
だから、それを達成するために、東京に居たり、大阪に居たり、福知山に居たりするわけです。
先日、『住み開き』の提唱者でもあるアサダワタルさんのこんなツィートを見ましたが、以前私も似たような経験があったので、凄く共感してしまいました。
とある滋賀県内の芸術祭の内覧会とレセプションに招かれ、観に行ったはいいが、帰り際に主催者の方から「東京いくんやろ、この裏切りもん!」と冗談っぽくというより悪意がある感じで言われて、正直ものすごく腹が立つ。(→)
— アサダワタル (@WataruAsada) 2016年9月16日
(→)大体、その人だって普段は海外で生活していて、地元の滋賀に芸術祭のときに戻って来ているという生活だし、大体、ある土地に関わっていたものがその土地を去るときに「裏切り者」って言うって、どんだけ田舎もん的な精神なんだと思うよ。(→)
— アサダワタル (@WataruAsada) 2016年9月16日
(→)あるプロジェクトの関係もあって毎回この芸術祭は観に来ているし、広報の相談に乗ったり、チラシも僕が教えている学生に渡したり、展示で必要なもの手配を手伝ったり(実際は手配できなかったけど)してきて、僕なりにオープニングを純粋に祝いに来て、そんな冷酷なセリフをきくなんて。(→)
— アサダワタル (@WataruAsada) 2016年9月16日
(→)人それぞれ生活や仕事があって、そのなかであるタイミングでその土地に関わったりするなかで、じゃあ逆に一体誰が「そこの土地に骨を埋める」という決心を末永く保証してくれるの?結局自分の人生、自分でケツ拭いて責任とらなあかんのに、(→)
— アサダワタル (@WataruAsada) 2016年9月16日
(→)その相手に「ここまで関わった癖に、この地を去るんかよ」って言う感情を押しつけるって、はっきり言って、そんな人に「私はここで頑張ってるから」って言われても、応援する気も一緒に何か見届ける気もほんとしなくなってしまう。「仲間づくり」が必要なんだったらもっと賢くやれよって言いたい
— アサダワタル (@WataruAsada) 2016年9月16日
以前、私が東京に住みます!って言った時に『福知山の事はもういいんやな』みたいなことを言われたことがあって。
こいう人が『許す』のって
福知山にずっと住んでる人だけなんですよね。
私も東京行く時に『福知山の事はもういいんやな』とか色々言われたなぁ。。でも、距離が離れたことで結果的に福知山での活動は加速したよ。
— 吉田佐和子 (@sawaclarinet) 2016年10月13日
その人がそこで何をしてるか?じゃなくて、とりあえず住んでいることが一番良い、みたいな。
これって、凄く閉鎖的な考え方だと思う。
福知山と関わる人を増やしていかないと、住む人だって増えない。
住んでる人を増やしたい=若い人に地元に帰ってきて欲しいと思っているものの、そのハードルを上げているのは、他の誰でもなくそういうことを気軽に口にしてる人なんじゃないかなって思う。
まちが好きっていう根っこの部分は同じはずだから、仲良くなれるはず。
私は、色んなチャレンジ、色んな生き方を許容出来る福知山であって欲しいし、自分がそういう受け皿を作っていきたい。
福知山が大好きやからね。